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落葉のなか


書誌

シリーズ
赤い場所からの挿話 II
所収
『霧の聖マリ』中央公論社, 1975
『霧の聖マリ』中央公論社(中公文庫), 1992
初出
『海』6巻4号(1974年4月号)

設定

舞台
日本の西の地方にある谷間の町
アイテム
城跡の石垣でとった蔦の紅葉
時代
私2が小学5年生(1931年±1年)の夏休み前~11月・旧制高校1年(1939年±1年)の休暇中

人物

私2
本文中では「私」。小学5年生。
私1
本文中では「父」。谷間の町に転勤。大槻神官の碁友達。
家族で谷間の町に引っ越した。
大槻素子
大槻神官の娘。
大槻神官
欅屋敷に住む。父の碁友達。
ばあや
大槻家の使用人。
**さん
海岸沿いの小都市の高等専門学校の講師。素子の婚約者。
技師の青年
海岸沿いの小都市の会社の技師。素子が愛していたが、結婚は断念。

考察

モザイクからはじき出された挿話

100の挿話のうち、他の挿話からの言及が全くないエピソードである。ヒロインの素子は、著者自身が「文庫版あとがき」に『落葉のなか』の大槻素子、(中略) など、いまでも胸に痛いように私のなかに住んでいる。と書いているにもかかわらず、この挿話以外には全く登場しない。連作短編のタテとヨコのストーリーが織りなすモザイクからはじき出された形である。

本挿話が書かれた後に、作者の意図とは別に、作品のほうが勝手に「私」の息子、またその子供という具合に発展していったため、全体のなかで行き場がなくなったのではないか。つまり、本挿話の執筆時には、著者は私1のアメリカ滞在を考えていなかったか、考えていてもよほど違った形であったため、他の挿話と辻褄が合わなくなったのが理由ではないかと考えられる。

以下、具体的に検討する。

本文中の当時、私は小学校の五年で素子は (中略) その年の終わり結婚することになっていたので私たち一家がその谷間の町からふたたび東京に転任したのは、素子が結婚して一年後のことである。から、私1が東京に帰ったのは私2が小学6年生のときであることが分かる。さらに素子の父は (中略) 一、二度東京の私の家を訪ねてきたことがあり、そのときも父たちは (中略) 碁を打ちつづけていた。(中略) その際聞いた話だったか、それとももっと後になって聞いたのか、はっきりしないが、素子は結婚後、数年して胸をわずらいから、少なくとも素子の結婚後数年は私1は東京にいて大槻神官と交流があった。私2が旧制中学の前半の間は、私1は日本にいたことになる。

本挿話に続く 赤III では、私1はすでに短期の外国出張に出ている。この「短期の」外国出張は、後に延長され、最終的には半永住に至る。赤III執筆時に、本当に短期で日本に帰る予定で書かれたかどうかにもよるが、本挿話執筆~赤III執筆の間に、挿話群全体の構想が変わったことが考えられる。(詳細は赤IIIの考察参照)

私2の浪人留年浪人構想

本文中、私2が旧制高校1年のときに素子の墓参に訪れる場面がある。ここに、私は八年前のことを話し、そのときの小学生は実はこの私である、と言った。の記述がある。順当にゆけば小学5年~旧制高校1年の間は7年であるから、1年合わない。墓参の季節は描かれてないので、旧制高校1年の1月以降と考えると、小学5年から8年となるが、それでは私が旧制高校に入った年と書かれているのに合わなくなる。

同様の現象が赤Iと橙Iの間などでも起こっているので、偶然であるとは考えにくい。この挿話が書かれた時点では、私2はどこかで留年あるいは休学する予定だったのだろうか。あるいは、私2は高校入学時に浪人する予定だったのだろうか。(詳細は考察→私2の学年の問題参照)

結局、その後の構想の変化のせいか、私2は休学も浪人もせずに 橙I で高校に入学することになる。

素子の亡くなった年

私が旧制高校に入った年、友人と一緒にした関西旅行のあと、一人で急にこの谷間の町を訪ねようと思ったのは、その前年、素子が死んだことを聞いていたからである。とあるが、この文は「前年に素子が死んだ」「素子が死んだことを前年に聞いた」の両義に解釈できる。

前者の解釈であれば、素子が亡くなったのは、当然ながら私2が高校入学の前年である。

後者の解釈をした場合について考える。素子は結婚後、数年して胸をわずらいとある。結婚が私2が小学5年のときなので、発病はその数年後、私2が旧制高校に入る3~4年前である。また、発病後谷間の町へずっと戻っていたということだったとあるので、発病直後に亡くなったとは考えにくい。さらに、旧制高校入学の前年、つまり高校浪人中に訃報を聞いたのであるから、それまでには亡くなっているはずである。結局、私2が旧制高校に入る1~3年前に亡くなったと思われる。

暦年代

挿話の主要部分(私2が小学5年生)は1931年±1年、素子の墓参の部分は1939年±1年を想定して書かれたと考えられる(詳細は考察→赤I・IIでの年代設定参照)。


更新:2012.12